徳川御三家紀州藩と関連深い歴史があります。
本覚寺は徳川御三家紀州藩と関連深いお寺です。
藩祖徳川頼宣(南龍院)は慶安3年(1650年)に初めて瀬戸村に巡遊、その節当山に御成、その後寛文2年(1662)にも来山されました。それ以降、二代藩主光貞、三代綱教、四代頼職、五代吉宗(八代将軍)親子など歴代藩主たちが幾度もご来遊くださっています。
天明元年(1781)5月には、藩主の御取立てによって、田辺龍泉寺末寺から総本山知恩院直轄の寺に昇格し、その上、紀州徳川家の葵紋付の幕提灯、仏具等の寄進を受け、寺には藩祖の位牌を祀り、藩主家と関係ある寺として一種の格式をもっていました。
またこの御報恩と御礼のため、住職は毎年春秋二回藩主の御機嫌伺いに若山(和歌山)吹上御殿へ参上し、その時に珍しい貝が手に入れば献上するのが恒例になっていました。
現在でも藩祖徳川頼宣候のほか、歴代紀州藩主の位牌を祀っています。
本覚寺には徳本上人の名号碑が残されております。
徳本上人(1758~1818年)は江戸時代中期、日高町(旧志賀村久志)に生まれ27歳で出家した浄土宗の僧。
創造を絶する荒修行を続け、40歳を過ぎてから布教の為日本各地を行脚しました。
11代将軍徳川家斉公の母君が危篤の折、江戸城に登城し念仏を授けたところ数日のうちに回復したと伝えられています。
徳本上人は木魚と鉦を激しく叩くという独特な念仏や、徳本文字と呼ばれる特徴的な「南無阿弥陀仏」で知られており、終筆が跳ね上がっていることから縁起が良いと言われ、念仏を唱えた者に名号を配られました。
全国に千基以上残る名号碑は活動の広さと民衆信仰の深さを物語っています。
正岡子規の高弟 松瀬青々も句を読んでいます。
本覚寺へは学者、研究家、嵬集家、多くの参拝者が訪れています。
中でも著名な俳人、歌人が訪れ作品を残されています。
その中の1人、松瀬青々(まつせせいせい)は、明治から昭和にかけて活動した詩人で、正岡子規に師事していました。「ホトトギス」の編集に従事し、後に大阪朝日新聞社に入社するなど、その人生を文学に捧げました。
松瀬青々は、南紀白浜へ訪れた際に本覚寺へ立ち寄り、句を読みました。
- 貝をみて あとは桔梗を 眺めけり